終わらない侵略

私もあなたもこんなことをしている場合ではない。

セルシン

久しぶりにブログを書いている。

最近は色々と忙しかったのだが、ひと段落ついた。

しかしこの平穏さもすぐ消えてしまうだろう。

喧騒がすごいな、掻き乱すなよ。

虫の声、終わらない夏、うるさい、人の寝息、鉛筆、丸い、セルシン、写経、うるさい、アンバパーリ、うるさい、うるさいうるさいうるさい。お前はうるさい。

 

 

眠かったので、15時間半寝た。

寝すぎだ。

私はよく夢を見るのだが、今日見た夢は非常に鮮明的だったな。

 

空が赤かった。

私は母と2人、家にいた。

あと数十秒で地球は滅びるらしい。

母と抱き合って泣いた。

「死ぬ時は苦しいのかな」 「痛くないかな」

「怖いな」 「死んだらどうなるんだ」

「一瞬で死ねるかな」

など、その数十秒の中で色々なことを考えていた。

死ぬのが怖かったらしい。

死への恐怖心で支配される夢だった。

でもみんなで死ねるなら別にいいか。そうかそうか。

夢の中でもこんなに死ぬのが怖いと思うなら、実際に死ぬ時はどんなに怖いのだろうか。

 

涅槃寂静

 

 

暇さえあれば本を読む。

というよりも、暇がなくても本を読んでいる。

要するに、やることをやらず、私は本を読んでいる。

最近はめっきり仏教の本しか読まなくなった。

ここ数ヶ月で、仏教に関するたくさんの知識がついた。

 

Gautamaは偉大だ。

やっと原始の涅槃経を読むことができた。

1年ほど前から強く望んでいたことだ。

「自洲法洲」

涅槃経での釈迦の要となる遺言、私はこの言葉がとても好きだ。

意味がわからない人のために教えてあげるか。

自分自身と、ブッダの教えだけを心の拠り所として生きよ という意味だ。

大乗仏教にはない考えである。

誰に縋ることもせず、釈迦が説いた教えを厳格に守り、自分自身と向き合っていれば涅槃に入れるらしい。

 

宗教の話をすると煙たがられるのでこのへんでやめておく。(誰もお前に興味はない)

私はお前を知らない。

 

眠い。

 

こんな日は文章を書くことにつきるな。

眠い。

 

私は風呂に入る前に眠剤を飲む。

安心安全だ。

大体薬を飲んでから2時間後に眠気がくるので、風呂に入る前のタイミングが非常に良いのだ。

いまは布団の中だ。

今日は少し暑いな。ジメジメしている。

夜に雨が降るらしい。

曖昧な記憶、水色の時間。

きっと忘れてしまうだろう。

 

夢は見たくない。

 

 

「寂しい」

この感情が分からなくなってしまった。

私は寂しいのだろうか。

分からない。

 

蝉が死んだ。

 

早く紅葉が見たい。

そして、はやく運慶展に行きたい。

 

この世界がたくさんの愛で溢れますように。

平和な世の中になりますように。

love&peaceな世界になって欲しいと心から思う。

 

そろそろ寝よう。

おやすみ。

 

 

貪欲な生き物

 

見てしまった。

見ようと思ったわけではない。

 

心に刺激がほしくて恐怖サイトを色々調べていた。

「恐怖の館」「イルカの夢でさようなら」オカルト好きなら聞いたことがある言葉だと思うが、それらを見ながら私は懐かしい気持ちに浸っていた。

でも私は怖くならなかった。当たり前だ、もう18だから。

 

 

私は、「転生」というものは本当にある事だと思っている。

 

事実私も自分の前世はなんとなく覚えている。

恐らく三毛別羆事件で熊に食い殺された村の娘だと思う。体がそう感じている。

 

私は仏教の話が好きなのでその話を少しすると、生き物は同じ生き物にしか生まれ変わることが出来ない、というのが仏教の考え方で存在するらしい。

猫は死んだらまた猫に生まれ変わり、

人間は死んだらまた人間に生まれ変わる、と。

 

私はどうもその考え方は納得いかない。

仏教の考え方は慈悲深い所にとても共感出来るものがあり、仏陀を崇拝しているけれども、

全部が全部納得できるものでは無い。

 

まあ、仏陀が生きていた世界と今私が生きている世界は余りにも違いすぎるので、当たり前なのだが。

 

話を戻し、恐怖サイトを閲覧していると、

‪「食卓のお肉ができるまで」

http://saisyoku.com/pics_killed.htm

というサイトに飛んだ。

 

私はこのサイトをみて、涙がとまらなかった。

善人ぶっているわけでも何でもない。

 

家畜達があまりにも可哀想で可哀想で、言葉を失った。

 

もちろん、この現実を知らなかった訳では無い。美味しいお肉が食べられるのは、生き物を殺しているからだ、という事実は誰しも分かっている事だろう。

 

だがしかし、その生きもの達がどのようなやり方で殺されているか、と言う事実を知っている人物は限られているのではないだろうか。

 

私もそのやり方までは今日の今日まで知らなかった。

 

 

世の中は基本的には汚い。

人間同士の争い、殺し合い、強奪、イジメ、家畜の大量生産、動物虐待。

 

人間の欲望で汚れまくっている。

そんな世の中で生きる私たち、

生きるのがウンザリする。

 

 

 

知らないフリを続けるのも、現実から目を背けるのも、自分の都合のいいように生きていくのも、自由だ。

 

知らなくても何も困りはしない。

 

でも私はそんな人間にはなりたくない。

ちゃんと現実を受け入れたい。

自分だけがいい思いをしたいだなんて思えない。

慈悲の心はちゃんと持ち合わせているつもりだ。

 

紛争地域に産まれた子供、家畜として産まれた動物のことを考えると胸が痛くなる。

 

なぜその運命だったのか。

私はその答えは先程も述べたように、前世との因縁が関係していると思っている。

 

前世に犯した罪の大きさによって、来世の運命は決まるのだと、そう思っているからである。

 

仏教の考え方とは違う。

 

悲運な運命を強いられた生き物は、

前世に悪い行いをした人間なのではないだろうか。

というよりも、そう考えたい自分がいるのは否めない。

 

私はYouTubeでも「お肉が食卓に並ぶまで」と検索をかけて、色々な動画を見た。

またしても涙がとまらなかった。

 

特に「フォアグラの作られ方」

https://youtu.be/6l5linLljDwはあまりにも残酷すぎた。

フォアグラとなる運命に生まれてきてしまった鴨たちの最期の表情が強く印象に残っている。

 

 

全ては人間達の貪欲さが原因の、殺戮なのである。それは家畜生産ではなく、ただの殺戮行為だ。

 

 

胸が痛い。

 

 

きっと家畜や紛争の犠牲になった子供たちは、来世は幸せな人生を送れる人間になるだろう。

そうなって欲しい。

 

私たち人間は、生き物の殺生をしている時点で、きっと来世が人間であることは無いに等しいと思う。

 

世界は残酷だ。

強い者が勝ち、弱い者は死ぬ。

人間社会でも同じことが言えるだろう。

 

もっともっと私が知らない残酷な事実は存在すると思う。

 

だが目を背けたくはない。

知らないフリはしたくない。

 

 

色々書いたが、私を偽善者だと思うなら勝手に思えばいい。

 

全ての生き物に対して慈悲の心を持ちたい。

私が今まで食べた家畜達、殺してしまった虫達、傷つけてしまったあなたに。

全ての生き物に謝りたい。

ごめんなさい。